4 英語力について考える

英語は勉強の対象ではない

英語は本来、ツールだと言われるように、勉強の対象ではありません。

 

インターネットのない時代、また、日本が世界から遅れていた時代は、外国の書物が読め、外国人から直接話を聞くことが、驚くほどの新しい知識や科学のヒントをもたらしたので、英語を読めるということがとても大切であったのです。

 

それでも、英語で何かを読み、書き、その得る中身が大切だったのですが、いつしかその道具の英語そのものにどれだけ知識があるかというように変化してきてしまいました。

 

本来は、英語を勉強することが完結ではなく、英語で何かできることが大切なのです。

 

日本の中学校3年生程度の英語力でアメリカの日常生活はまったく困りません。


忘れたと思っている人でも、アメリカに行って1、2か月勉強し生活すれば、思い出し、おさらいして、十分使いこなせるようになります。

 

集中力・記憶力・自己菅理能力のすぐれた人はさらに進んで、より高度な単語を覚え、熟語や文法を勉強し、英語そのものの力を高めることができます。

 

しかし、そういった能力に恵まれていない人は、日常生活に困らなければ、なかなかそれ以上、複雑な単語や熟語を暗記し、こじつけのような文法を理解していくのはとてもむずかしいのです。

 

人聞は、記憶力がすぐれていないからといって別に人生の敗者ではありません。


日本は、英語が受験の対象科目のため、英語力の高い人がよくできる人・頭のよい人、ということになりがちですが、アメリカでは、語学が入学試験の対象になるというわけではないし、スペイン語のできる人が頭のよい人というような評価にはなりません。

 

日本でも、ベトナム語やスワヒリ語ができても頭のよい人という評価にはならないと思います。

 

なぜか英語だけが、とても大きなものなのです。

 

人の上に立つのはカリスマ性とかリーダーシップとか責任感の強さとか、ビジネスをするにも勘のよさとか決断力の早さとかいろいろあります。

 

人間はすべてを具えているわけではなく、また、自己管理がしっかりしているがゆえに行動力がなかったりもしますから、自分の能力不足に対しての努力は大切ですが、あまりそれに力を注ぐより、自分のよいところを伸ばすことのほうがもっと大切です。

 

メキシコの何の学歴もなく、ABCも知らないおばちゃんでも、アメリカに不法入国して、トイレ掃除の仕事を得たらトイレの言葉からちゃんと覚えて、暮らしていくようになります。

 

私たちも、アメリカで働かなければならなかったり、大学でどうしても授業についていかねばならなくなったりと、追い込まれれば、中3くらいのレベルの英語力でも、十分に耐え、 1日1日、 1時間1時間、英語力を伸ばしていくことができるのです。

 

英語「を」→英語「で」の時代

英語力はどこかで居直って、英語で何かをするという状況に自分を追い込んでいかなければ、本当に身につく形にはなかなかなりません。

 

日本を一歩も出ずに英語をモノにするということを売り物にする人もいますが、それは本当に特殊なことで、そこまで、英語の習得に時間を割く必要もないし、ましてや自動翻訳や自動通訳ができる時代がもうそこまで来ているのです。


英語「を」という時代は終わりです。

 

英語「で」何かをするということを楽しまなければなりません。

 

英語力の弱い人は、アメリカの田舎の寮制の大学で、アメリカ人と一緒に住み、同じものを食べ、クラブ活動をし、音楽を聴き、スポーツをし、英語でアートでも数学でもいいから勉強するという状況に自分を置くのが、一番の英語を習得する道であり、また、英語「で」何かをするという楽しみを発見する方法です。

 

それには中学3年生くらいまでの英語で何の問題もありません。